糸の蜘蛛−第3話−

第3話
 鬼が仕事のために池の周りを巡回した始めたので、カンダダは一人になった。ときたま、ほかの罪人がうめき声を上げながら、血の池の水面から姿を現し、
 た、たすけてくれえ。
 などとうっとおしい叫び声をあげて、カンダダに蹴とばされた。
 カンダダは、池の畔にもたれかかり、血の池地獄の風景をぼんやりと眺めた。
 遠くで鬼たちが棒のような物で池を撹拌している。
 時たま罪人の哀れみを請う声が響いてくる。
 あーあ、つまんねえ事になっちまったぜ。
 自分のミスだったとはいえ、鬼に弱みを握られてしまうとは、カンダダも迂闊なことである。地獄に来てまで自分の要領の悪さを知ると、いささか落ち込んでしまう。
 それにしても、
 とカンダダは地獄世界を見回した。
 暗いところだなあ。
 周囲すべて赤黒く輝いている。
 一見すると、とてつもなく広い洞窟だ。
 周囲は血の池地獄湖畔で広く静かなところだが、少し離れたところには、なんだか巨大な竈がいくつもあり、それぞれに巨大な鍋が乗っかっていて、鬼どもが罪人を中に落っことしてかき混ぜている。しばらくすると、煮上がった罪人を引っ張り出し、近くの大きな皿の上に並べていた。食べるのかと思ってみていると、冷めてきた罪人たちは目を覚まし、今度は隣の鍋の中に放り込まれる。それが次々と終わることなく繰り返されている。
 終わりのない拷問、終わりのない苦行。
 生産性のない不毛なことをしているもんだ。
 カンダダはあきれて思った。
 鍋ごとにスパイスが異なり、熱いだけでなく、ひりひりしたり、臭かったりするのだと言うことは、カンダダは気づかなかった。
 反対方向を見ると、奇妙な木の枠がずらーっと並んでいて、罪人が縛り付けられて、赤く熱した火鋏で舌を挟まれて引っ張られていた。
 舌ってあんなに伸びるんだ。
 妙なことにカンダダは感心した。
 そういえば、子供が石を積んでは鬼に壊されている場面をここにくる途中見た。
 何も子供に土木作業なんかやらせなくてもよいのに。しかも途中で壊したりして、いじめじゃねえか。あれ。
 妙なところだよなあ。
 カンダダは向きを変え、池の畔に両肘を乗せた。
 遠くを見ると、何かきらきら光っている。
 目を凝らすと、どうもあれが有名な針山のようだ。
 針山って言うと、大きな針がびっしり生えていて罪人が串刺しになっているように思われるが、実は、針はもっと細くて小さい。しかも硬くて丈夫なもんだから、足の裏などにぶすぶす刺さる。しかし、串刺しってほどではないので、鬼たちが下から追い立てて、さらに山を登らせていくのだ。
 上まで登ったら降りてくるのかな。
 などとカンダダは思った。
 はあ。
 カンダダは向きを変え、また池の畔にもたれかかると、天井を見上げた。ずいぶんと高いところに天井の岩盤が見えている。
 と、すると、ここは地中にあるのだろうか。
 壮大なジオフロントと言うことになる。
 照明も特にないが、なぜか赤黒く照らされている。
 不思議なこともあるもんだ。
 カンダダはそう思って、天井を見ていると、ふと、真上に白い光がきらりと見えた。
 おや、あそこだけ光が違うぞ。
 目を凝らしてみると、天井が上に向かってくぼんでいるところの中心部に白い丸い穴のようなのが開いているように見える。
 あれは、穴が開いているのか。それで、太陽の光が漏れているのかも。
 するとあそこが地上で、やっぱりここは地下深くって事なのだろうか。
 あそこまで行けば、逃げられるかもな。
 そう思って、自分でばかばかしくなった。
 どうやってあそこまで上がるんだ?
 大体余計なことをして、鬼に見つかって、より悪い地獄へ転属になるのはまっぴらごめんである。
 ここは鬼の手下になっても、おとなしくしているのが賢明だ。
 カンダダも地獄に来て少し賢くなったようだ。
 そう思ったとき、天井の白い光が少しちらついた。
 うん?
 カンダダが再度目を凝らしたとき、
 ひゅゅゅぅぅうううん。
 どわっ。
 カンダダはのけぞった。
 上から蜘蛛が落ちてきたのだ。
 蜘蛛はカンダダの目の少し上で停止した。
 あーびっくりした。
 カンダダは少し上半身を起こして観察した。
 目の前に、糸にぶら下がって小さな蜘蛛がぶらぶら揺れている。
 蜘蛛?
 カンダダは子蜘蛛を見た。
 子蜘蛛はしばらくあえいでいたが、落ち着いてきたので、辺りを見回した。そして、カンダダと目が合う。
 ど、どーも。
 子蜘蛛は挨拶をした。
 カンダダは反応しない。
 うわわ、また目の前にめっちゃ怖そうなのがいるやん。
 内心そう思って子蜘蛛は嘆いた。
 カンダダは、蜘蛛から糸に目をやり、それを追ってずーっと上の方へと視線を送った。
 あの穴の様なところから落ちてきたのか?
 カンダダは首を傾げた。


 よしよし、カンダダめ、気づきおったな。よしよし。
 お釈迦様は釣りをしているような気分で、ほくそ笑んだ。
 さあ、カンダダよ、生涯最初で最後のチャンスである。
 チャンスの女神に後ろ髪はないのだぞ。いましかないのだ。
 登ってくるが良い。
 無事ここまで登ってきたら、天国に受け入れてやっても良いぞ。
 カンダダのような罪人を天国に招いたら、それこそ何をしでかすかわからない。カンダダ程度の罪人でもしたい放題。そういう意味ではカンダダにとって天国とはまさに天国のようなところであろう。
 だが、お釈迦様にも勝算あり。
 このような、のほほんとした環境で、何不自由なく過ごすことが可能ならば、カンダダも本来の良い人間に戻り、別の言い方をすれば何もする気が起こらなくなり、一介の天国住民へとなるだろう。
 何となれば、そうなるまでの間、ほかの天国の住人を避難させておけばよい。
 改善が見られなければ、池の中へどぼんと落とせば、それで地獄へ舞い戻る。
 さあカンダダよ、その糸をたどってくるのだ。
 前向きになるのだ。前頭葉を働かせよ。
 だが……。
 こんなところに降りてくるとはあきれた蜘蛛よ。
 と、それでカンダダの関心は薄れた。
 どだい当たり前の話だ。
 蜘蛛の糸を見て、よし、これを登ろう、などという人間は、酔狂以前に、脳のシナプスのつながり方に問題があるといわざるを得ない。
 その点では、悪行三昧を尽くしたカンダダもただの凡人だ。

 こらカンダダ、気づかぬか、ほれ、ほれほれ。
 お釈迦様は糸を上下に揺らした。
 カンダダの目の前で、子蜘蛛が上下に揺れる。
 あーん、なんだこの蜘蛛。
 カンダダはうっとおしそうに横を向く。

 む、カンダダめ、やりおる。
 お釈迦様は微妙に位置をずらして再度上下に揺らす。
 な、なんだあ。
 カンダダは、またも目の前に現れた子蜘蛛に顔をしかめた。
 今度は反対方向に顔を背けた。

 カンダダめ、逃げられると思ったら甘いぞよ。
 お釈迦様はしつこく糸を揺らす。釣りではないのだが。
 ええい、しつこいなあ、なんなんだこの蜘蛛は。
 カンダダは手で蜘蛛を払った。
 おごっ。
 子蜘蛛はカンダダにはたかれてうめいた。
 な、なにすんのや。
 と小声で抗議する。
 むっ?
 カンダダは、じろっと子蜘蛛の方を見た。
 い、いや、なんでもないです。
 子蜘蛛は目をそらして、小さくつぶやいた。
 だが、カンダダは不思議そうな顔をして子蜘蛛を見ている。
 うわ、まだこっち見てる、やばー。どないしよー。
 子蜘蛛は内心どきどきしながら、様子をうかがうと、カンダダの様子が変なことに気づいた。
 カンダダは、子蜘蛛を見てるのではなく、糸を見ているのだ。
 何だ、この糸。
 カンダダは、蜘蛛の糸を手で払った。
 んげ。
 子蜘蛛は糸に引っ張られてうめいた。
 糸は切れない。
 カンダダは両手の指で糸をつまんだ。
 ぴん、と左右に引っ張る。
 糸は切れない。
 指先に力を込め思いっきり引っ張る。
 全然切れない。
 カンダダは、糸の伸びてる天井の方を見上げた。
 糸はずーっと上の、なにやら白い光点のところから降りてきている。
 カンダダは、上空を見上げた後、糸をずーっとたどって手元まで視線を落とす。
 カンダダは、首を傾げた。それから、糸を手に巻き付け、下に向けてきゅっと引っ張った。
 糸はびんっと伸びて、動かなくなる。
 
 お、カンダダめ、やっと気づいたな。
 お釈迦様は糸を引っ張りかえしながら、にんまりと笑みを浮かべた。
 
 この糸、切れんぞ。
 何度か引っ張ってみるが、糸はまっすぐになるだけで、切れない。
 カンダダは、考えた。
 この糸、あんな上から降りてきてる。しかも、なにやら日の光のようなものがちらっと見えるところからだ。
 するとやっぱり、あそこに穴が開いていて、その上は地上なんじゃなかろうか。
 てことは、偶然、この蜘蛛が穴に落ちて、するするとここまでやってきた。
 すなわち、この糸は地上とつながってる?
 カンダダは再度上を見上げる。
 でも、何でこの糸、こんなに丈夫なんだ。
 カンダダは首を傾げた。
 だが、細かい理屈まで考えようとしなかった。
 だって、今いるところを考えてみればわかる。
 地獄だぜ、地獄。
 すでに非常識ってもんだろう。
 切られても煮られても死なないんだぜ、ここでは。
 地獄ってなあ、坊主どもが、悪さをしないように子供にしゃべって聞かせる脅かし話だとばっかりおもっていた。
 それがどうだ。
 悪さをしたら地獄行きとは。
 シャレになんねえ。
 カンダダは思った。
 糸を見下ろす。
 地獄ってなもんまであるんだ、糸が切れないくらい、大しておかしいことじゃねえよな。
 と、納得する。
 たしかにそうだ。
 そして、2・3回糸を引っ張ってみる。
 ついで、糸を両手に巻き、池の端に足をのせ、体重をかけて引っ張ってみた。

 んく。
 お釈迦様はうめいた。
 カンダダが体重をかけて糸を引っ張ったからだ。
 足を踏ん張って、糸を引っ張り返す。
 
 切れねえ。
 カンダダは感心した。
 すると、これを登っても、切れるこたあねえって訳か、おい。
 するとすると、これを登りきれれば、地上に出られるって事かよ。
 カンダダは、ドキドキしてきた。
 おいおい、まじか。
 と上空を見上げる。

 ああ、マジもマジだよ、カンダダくんっ。
 お釈迦様は揉み手をせんばかりにうなずいた。
 
 で、でもなあ。
 問題はまだある。
 大体、今切れなくて、最後まで切れないだろうか。
 それに、こんな細い糸を、あんなところまで登れるだろうか。
 途中で鬼どもに見つかって引きずりおろされはしないだろうか。
 カンダダは迷った。
 だが、地獄の境遇から脱するからには、少々の覚悟は必要だ。
 鬼の手下になったり、糞尿池に戦々恐々としたりしなくて済むのだ。
 ふ。
 カンダダは小さく息をもらした。
 糸をつまみ上げる。
 子蜘蛛が目の前にぶら下がってぷらぷら揺れる。
 な、なに。
 子蜘蛛はびびった。
 カンダダは笑みを浮かべた。凄い形相だ。
 なんかしらねえけどよ、蜘蛛、おまえのくれたチャンスにかけることにするぜ。
 は?
 子蜘蛛にはなんの事やらわからなかった。
 カンダダは、糸を手に巻き付けた。子蜘蛛は引っ張られて、ぐえっとうめいた。
 カンダダは、さらに上の方の糸を手に巻いた。
 そして辺りを見回す。
 鬼どもは巡回に出ていない。
 よし。
 ぐっぐっと、糸を引っ張り、
 ふんっ。
 カンダダは糸を登りだした。
 手に糸が食い込んで痛い上になにやらべとべとするが、かまってられない。ぐっと登ると足の裏で糸を挟み、手に巻き付いた糸をほどき、さらに高いところの糸をつかんで手に巻く。
 それを繰り返す。
 カンダダはぐんぐん登っていく。
 けほけほ。
 引っ張られてむせた子蜘蛛は、咳をした後、辺りを見回し、上を見上げた。
 さっきの男が、するすると登っていく。
 なんやなんや。あの男、わいの糸を登っていきよる。
 男が糸を巻き付けては引っ張りよせ、さらに巻き付け、どんどん登っていく。
 なにするんや、そんなに引っ張ったら切れるやないか、おい、またんかい。ちょっと、これはわいの糸やで。わいの糸で何する気や。巣を作るんなら自分の糸で、ちょ、ちょっとまってな。
 子蜘蛛もあわてて登りだした。

 む、来よった来よった。
 お釈迦様はつぶやいた。
 思い通りに展開して、笑みを浮かべてるかというと、口をへの字にしている。
 カンダダの体重がかかっているためだ。
 手が痛くなって来たので、糸を胴体に巻き付け、手で握りなおした。
 足を踏ん張る。
 ぐいっ、ひょい。ぐいっ、ひょい。
 カンダダは登っていく。
 するする。
 子蜘蛛も登っていく。
 さあ、ここまで来れるかな。チャンスは努力してつかむものだよ。
 お釈迦様は足を踏ん張り、池の中をのぞいてつぶやいた。
 おっと。
 バランスを崩しかける。
 あぶないあぶない。わしが落ちるところだ。
 お釈迦様はドキドキした。


 鬼は鼻歌を歌いながら、池の畔を歩いている。
 池と言っても血の池だ。
 ムードはない。
 普通の人なら。
 鬼にとっては、ムードばりばりの場所だったりする。静かで、風光明媚で。
 彼女欲しいなあ。
 鬼は思った。
 ここを美人の鬼娘と一緒に歩くのだ。もちろん彼女は、虎縞のビキニだろう。鬼娘と来たら虎縞のビキニは1980年代初頭からのセオリーだ。
 鬼は想像した。
 血の池地獄。
 もやが立ちこめた湖畔。釜ゆで地獄からの焚き火の煙だ。
 静かな中に、罪人のうめく声がどこからともなく聞こえてくる。
 畔を歩く二人の鬼。
 ねえ見て、針の山が光って綺麗。
 ほんとだ。でも、君の方がもっと綺麗だよ。
 やだ、もう。
 なんてなあ、おい。
 一人照れる。
 た、助けてくれえ。
 すぐそばの血の池の中から罪人が顔を出した。
 鬼は、金棒で罪人を沈めた。
 やれやれ、想像しなけりゃやってられんよなあ。
 ため息を付く。
 さて、カンダダはおとなしくしてるかな。
 鬼は、カンダダのいた場所に戻ってきた。
 あれ?
 カンダダはいない。
 あいつどこに行った。
 辺りを見回す。
 どこにもいない。
 ははーん、俺が脅したんで逃げたな。
 無駄無駄。
 どこに行こうとも、地獄からは逃れられん。あちこち鬼が巡回しているし、血の池に潜っても苦しくなるだけだ。
 カンダダくーん。どこかなー。隠れても無駄だよー。
 鬼はそう言いながら、畔を歩いていく。
 少し進んだあと、立ち止まって、辺りを見回した。
 どこにもいない。
 妙だな。
 鬼は首を傾げた。
 そのとき、ちらっと、視野の隅、斜め上空に何か見えた。
 ……。
 鬼は正面に向き直った後、
 うん?
 あわてて再度斜め上空を見た。
 鬼は絶句した。
 カンダダが空中を登っている。
 平泳ぎのような動きで上昇しているのだ。
 な、なん……。
 鬼は呆然と見上げ、それから、カンダダの真下へ向けて走り出した。
 真下まで来る。
 上空を見上げると、カンダダがひょい、ひょいと登っていくのが見える。
 うそ。
 鬼は夢でも見てるのかと思った。
 ぴと。
 うん?
 何か顔に当たる。
 なんだこりゃ。
 鬼は手に取って見た。
 糸……?
 糸おおおおお??
 鬼は驚いた。
 カンダダのやつ、この糸登ってんのかよ。
 何で切れないんだよ?
 よくわからなかった。
 カンダダのやつ、どこに向かって登ってるんだ。
 鬼は、糸の伸びていく方向を見た。何か白い光が見える。
 穴?
 って事は何か。カンダダのやつ、この糸を登って、あの穴から外に出ようってか。地獄から逃げ出そうってのかよ。
 鬼の頭の中に二文字が浮かんだ。

 脱獄……。

 本当の脱獄じゃねえかあああ。
 地獄開闢以来前代未聞空前絶後な出来事である。
 すぐに報せなきゃ。
 と、鬼は上司に報告しようとして、ぴたっと停止した。
 鬼は振り返り上空を見上げる。
 待てよ。
 この糸をたどれば、俺も外に出られるんじゃ……。
 それから周囲を見回した。
 地獄の風景が目に映る。他に鬼はいない。
 地獄か……。
 そりゃね。そりゃあ、地獄は鬼にとって別にイヤなところじゃないよ。ここが当たり前の世界だしね。
 でもさ。
 たまにはね、他の世界も見てみたいよな。こんな、日も差さず、いつも赤黒い世界でさ、何で赤黒いか知らないけどさ、毎日毎日、罪人を相手に……。
 毎日毎日……。
 ここのところ、体調がおかしいんだよなあ。疲れがたまってんだと思うけど。
 おまえ、最近顔が青いぞ。赤鬼だろ、おまえ。
 そう同僚に言われたこともある。
 そういや、青鬼って何で顔が青いんだよ。あれ、明らかに病気じゃねえか。もしかして、あいつらも元は赤鬼だったんじゃ。別の種族かと思ったが、ほんとは、赤鬼が日々の重労働に体をこわして青くなったんじゃ。
 んなわけねえか。
 鬼は笑おうとしてなぜか笑えない。
 そういや、ここんところずっと不安を抱えているんだよな。どこかおかしいところが出そうな気がして、定期検診を休んだのはついこの間のことである。
 鬼はぐっと拳を握る。
 それもこれも、毎日毎日同じ事の繰り返しだからじゃないか。ストレスだよストレス。そういや、この間見た番組で、毎日毎日同じ事ばっかりやってると脳の機能が低下して早くぼけるって言ってたな。趣味でも持って変化ある毎日を楽しく過ごしなさいって。
 だが、地獄では無理な話だ。
 地獄の鬼には就労環境の改善を求める労働三権も認められてないし。
 ストライキなどしたら、罪人がのんびりするじゃないか。
 それが地獄の公式見解なんだって上司が言ってた。昔、労働運動をしてパクられたことがあるとか言ってたな。
 鬼は、また周囲を見回す。
 頭の中で何かがぐるぐると動き出す。
 当たり前で、なじみのある風景。
 だが、本当は。
 地獄なんじゃねえか、ここは。
 鬼は何か新しいものを発見したような気がした。
 気の毒なことに、彼は自己没入状態に似た精神の一時的異常を起こし始めていた。固有名詞と代名詞がごちゃ混ぜになり、地獄を見て地獄を再発見するなんて、いいのか悪いのかわかりゃしない。
 そうだよ。
 ここは地獄だよ。所詮地獄なんだよ。
 俺はさ、こんなところで一生を送るような鬼じゃねえんだよ。
 世の中は変化を待ってるんだよ。
 ミレニアムなんだよ。
 わけのわからないことを思いつつ、鬼は、糸を手に取った。ぐっぐっと引っ張ってみる。
 行くか!
 最近体の調子が悪いって言ったって、元々体力に自信はある。カンダダごときに出来ることが俺に出来ないはずはない。
 鬼はぐっと力を込めると、糸を登りだした。

第4話へ
第2話へ
戻ります