糸の蜘蛛−第4話−

第4話
 おーい。
 声がした。  おまえ、そこで何やってんだ。
 登りだしたばかりの赤鬼はどきっとした。
 いきなりかよ。
 声のした方をちらっと見ると、同僚ふたりが近づいてくる。
 やべっ。
 赤鬼はもはや細かいことは考えなかった。逃げるんだ。捕まるぞ。捕まったら営倉行きだ。左遷だ。地獄7界の最下層へとばされて、悲惨な一生だ。
 うおおお。
 鬼は必死になって登りだした。
 な、なんだあ。
 鬼の同僚二人は、赤鬼が空中を登りだしたのを見て驚愕した。
 く、空中を登ってる?
 駆け寄った二人は、赤鬼が糸のようなものを登っているのがわかった。
 あ、あのやろう。
 二人はカッと血が上った。元々血の気の多い連中だ。といっても気が荒いという意味ではなく、量が多いのだ。赤血球が多いのだ。多すぎて皮膚を通して赤ら顔になってる。赤血球が多いと酸素もたくさん脳に行って頭良くなりそうだが、活性酸素もたくさん行っちゃったりするので、プラマイゼロなのだ。ちなみに青鬼は、健康を害しているのではない。血中成分が鉄ではなく銅なので血が青いのである。それが透けているだけで、つまり赤鬼とは別の種族なのだ。
 こら、まちやがれ。
 二人も登りだした。
 待て、降りてこい。
 そんなことを叫びながら二人の鬼も登っていく。言い訳を口にしながら悪いことをやっているようなもんだ。
 すぐにその騒ぎは、血の池地獄で苦しんでいた罪人たちの知るところとなった。
 罪人たちはしばらくその様子を眺めていた。その瞬間、苦しみは感じられなかった。苦痛より驚愕の方が上回っていたのだ。
 それから、罪人たちは、三々五々糸の周りに集まってきた。そして、カンダダや赤鬼たちが考えたのと似たような思考展開をめぐらして、上を見上げ、顔を見合わせ、我先に糸に飛びついた。
 

 ぐええええええ。
 お釈迦様はお腹を締め付けられてうめいた。
 カンダダだけならいざ知らず、まさか、鬼たちや罪人らまで登ってくるとは思っていなかった。子蜘蛛のジェームス君まで登ってきてるではないか。彼らの体重が糸を引っ張り、糸をお腹に巻き付けて引っ張っていたお釈迦様のお腹を締め付ける。
 まずい。
 お釈迦様はその明晰な頭脳で思った。
 まあ、普通の頭脳でも思っただろうが。
 ど、どうするか。
 そうだ。
 お釈迦様はすぐにひらめいた。さすがである。
 近くの木に糸を巻き付けよう。
 そして、カンダダが登り切ったところで糸をちょんぎれば、子蜘蛛君以下のみなさんは地獄へと戻っていく。一石数鳥の計ではないか。
 お釈迦様は力を込めて糸を引っ張り、そばの木に近づこうとした。


 うん?
 糸が上昇してねえか。
 カンダダは登りながら思った。
 気のせいか?
 結構、重労働だ。頭に血が行かない。気のせいかもしれない。
 カンダダは、一息つこうと思った。
 停止したカンダダは、糸が上に動いていることに気づいた。
 やっぱり動いている。
 だが、すぐにそれ以上のことが彼の耳に到達した。
 下から叫び声や怒鳴り声が聞こえたのだ。
 やべ、見つかったか。
 カンダダは下を見た。
 ぎょっとなった。
 下の方を、ぞろぞろと鬼や罪人が登ってきているではないか。
 うそっ。
 カンダダは真っ青になった。
 

 子蜘蛛は上を行くカンダダが停止して自分の方を見ているのに気づいた。彼はカンダダに追いついていなかった。彼の方が登りはうまいが、体の大きいカンダダの方が移動速度が速いのだ。もっとも、追いついたとて、怖くて追い越せないだろう。
 な、なんや。
 カンダダは、じっとこっちを見ている。子蜘蛛は停止した。
 こ、これはわいの糸やで、登ってもええやんか。おまえの方がいかんのやで。
 と小声で言った。
 カンダダはまだ見ている。
 うわ、怒ってるんやろか。やばー。めっちゃこわそうやん。しゃ、しゃーない。
 え、ええわ、おまえが登ってることは許したる。
 子蜘蛛は目をそらして小さく言った。
 そ、その代わり、これで巣を作るときは、ひとこと言ってや。わいの糸やねんから。
 子蜘蛛はそうつぶやいて、カンダダの方を見た。
 カンダダは上を向いて登っていた。
 き、聞いてへん。
 子蜘蛛はむっとした。


 カンダダは、急いで登りだした。
 無言だった。
 かつて芥川龍之介は書いた。
 カンダダが後から登ってくる鬼たちに降りろと言い、その器量の狭さで、糸が切れてしまう話を。
 そんな事してる場合かよ。
 叫んでる暇があったら、一刻も早く登らないと。
 いつ切れるかわからないじゃないか。
 叫んだって降りるような連中じゃねえし。
 大体、叫ぶ時に力を入れすぎて糸が切れたらどうする。
 カンダダは必死になった。
 だから、芥川流に言うと、当然、糸も切れない。
 もともとカンダダが叫んだくらいで切れるほど糸の器量も狭くはない。いや、お釈迦様の器量も狭くはない。それに、今のお釈迦様はそれどころではなかった。

 お釈迦様があと3歩で木にたどり着く、という段になって、糸のもっとも下にある地獄の血の池の畔では一大事になっていた。
 地獄から脱出できる唯一のルートが発見されたことが、瞬く間に拡がり、あちこちの地獄から鬼だの罪人だのが集まってきたのである。その騒ぎはとどまるところを知らない。糸は鬼と罪人で鈴なりで押し合いへし合いでなにやら寄生生物がとりついた化け物のような光景になっていた。
 こらこらー。おまえら何をしてるかーっ。
 笛の響く音ともに何かがやってきた。
 やべっ、サツだ。
 罪人たちがわーっと散る。
 やってきたのは地獄の騎馬警官隊。
 一角馬ユニコーンでも八脚馬スレイプニールでもない地獄の黒馬にまたがり、警官隊が現れ、金棒を振り回す。
 その後ろから巨獣ベヒモスの上で片膝立てて座ったまま、ハエの王ベルゼビュートがやってきた。
 これはこれは、ベルゼブブ様。
 騎馬警官隊を率いてきた鬼警部が頭を下げて言った。
 ハエの王は、ごん、と鬼警部の頭を槍の柄で叩いた。
 いてっ。
 わが名はベルゼビュートだ。ベルゼブブなどではない。
 同じじゃないですか。言い方が違うだけでしょう。
 ベルゼビュートの方が、なんかアメリカっぽくて格好いいではないか。ベルゼブブなどと、ハエがぶんぶん飛んでる音のようで品がない。
 でも陛下はハエの王ですから。
 ごん。
 いてっ。
 それより、なんだこの騒ぎは。
 はっ、ただいま調べさせておりますれば直に。
 鬼警部は、頭をなでさすりながら、そう答える。職務に忠実なのだ。
 わかりましたー。
 部下が駆け寄る。
 あれに、天より糸が降りておりまして、罪人や一部の鬼どもが、その糸を伝って脱獄を図ろうとしているものと思われます。
 脱獄だとーっ。
 鬼警部が叫んだ。
 ごん。
 うるさかったのか、ベルゼビュートは鬼警部を叩くと、
 松風、どうどう。
 とベヒモスの名を呼びながら操り、それからひらりと降りた。糸の下まで歩いてくる。
 すらりと筋肉質の堂々たる体格で、首から下は格好の良い青年武将のように見えるベルゼビュートは、ハエの頭を上に向けて糸を見上げる。
 これで脱獄とはな。地獄も軽く見られたものよ。
 そうつぶやき、
 だれが手引きしているのか、調べよ。
 そう鬼警部に言い、
 糸を手に取った。
 手にぐるぐると巻き付ける。
 ぐぐっと、腕を曲げ、
 上空を見上げた。まだかなりの鬼や罪人がぶら下がっている。
 ふんっ。
 と、糸を引っ張った。


 ぐえっ。
 お釈迦様はうめいた。
 後少しで木の枝を掴めると言うところで、お釈迦様の体はものすごい勢いで引っ張られた。
 お釈迦様も天国じゃ1、2を争う堂々たる体格と腕の持ち主だった。かの猿王孫悟空ですら全然かなわなかったと中国の古い奇書に記されている。日本の書物に出てくる方の孫悟空ならお釈迦様に勝てるかもしれないが、あれは地球人や猿じゃなくサイヤ人だ。
 そのお釈迦様ではあったが、多数の罪人と鬼をぶら下げた上に、糸を引っ張られたらたまらない。その上、運が悪かった。
 ちょうど彼の足下は、芝生だった。
 それも、日本のバブル期に作られたゴルフ場に生えているような安っぽいやつではない。
 本場ヨーロッパはイングランドの、プレミアリーグのサッカー選手に踏まれて昇天してきた芝生だ。天国という環境もあって、丈夫に根付き、根性ある草となっていた。
 当然、お釈迦様は草の上に足を載せている。
 つまり、摩擦係数は土の上より低かった。
 ずるっ。
 お釈迦様は滑った。
 お釈迦様はお腹から地面にひっくり返った。
 ぐふ。
 息をもらす。
 ずるずる。  糸に引っ張られて、お釈迦様は芝生を掴んだ。芝生はしっかりと根付いていた。根付いていたから、当然、お釈迦様の体は停止した。
 ふう。
 お釈迦様は息を吐いた。
 

 む。
 ベルゼビュートは、びんっと伸びた糸を見た。何かに引っかかったように動かなくなった。
 ふっ。
 ベルゼビュートはアルカイックスマイルを漏らし、再度引っ張った。


 芝生は根性があったので、引っこ抜けなかった。だが、葉っぱは滑りやすかった。先細りなのが余計に悪かった。お釈迦様の手は、実にあっけなく抜けた。


 カンダダは、後少しってところで、上に進めなくなっていた。
 糸が激しく揺れだしたからだ。
 やばい。
 カンダダは上を見た。
 広く円形状にゆらゆらと白い光が揺れている。あれが出口なのは言うまでもないことだ。
 後一歩だ。もう少しだ。
 だが、疲労がたまっている上に、揺れてうまく登れなくなっていた。
 ええい、後少しじゃないか。もう一踏ん張りだ。カンダダのこれまでの中途半端な人生にしてはよくやったではないか。初めての成功は目の前だ。さあ、自らの手で栄光をつかむときだ。
 そのとき……、
 ゆるん。
 は?
 糸がゆるんだ。
 ゆるんだ?
 糸が切れることは想定していたカンダダだったが、ゆるむことは想定していなかった。


 お釈迦様は、叫んだ。
 しまったあああ。
 ずるずる芝生の上を滑り、見る見る池が近づいてきた。
 このままじゃ地獄に落ちてしまう。
 いや、落ちるのは問題ない。
 単に落下するだけだ。お釈迦様だから、また天国に戻ってこられる。だが、
 お釈迦様の頭によぎったのは、閻魔だとか地獄に暮らす王たちの顔だった。
 わ、笑いもんだーっ。
 どっぽーん。
 お釈迦様の姿は池の形をした空間境界面の向こうに消えた。


 糸の張りがなくなると、ふにゃ、と糸がゆがんだ。
 カンダダは、その瞬間、すべてが終わったことを悟った。だが、それを心は理解できずにいた。理解したくなかったのだろう。なぜだ、ここまで努力したのに。なぜ努力とは無関係のところで結果を用意されなければならないのだ。この世には神も仏もないのか。
 神や仏は、地獄とは関係ない。
 すくなくとも形式的にはそうだった。
 お釈迦様が余計なことをしたからなのだ。
 悪気はないのだが。
 それは、地獄の権威から見れば、越権行為だった。
 カンダダはそのとばっちりを受けただけである。
 カンダダの体が落下し始めた時、彼にとっての不幸の原因が上空の白いゆらめく光の中から出現した。
 お釈迦様の巨体だった。
 カンダダは落ちながら、そいつが原因だと思った。
 いつも、真実を知ったとき、すべては手遅れなのであった。
 思えば気の毒な話であった。


 鬼や罪人らが発するいくつもの絶叫と奇叫、そして、なんでぇぇ?、という子蜘蛛のかわいい声が重なりながら落下していき、不思議な多重奏が血の池地獄一帯に響いた。
 ベルゼビュートは、糸をぐん、と手を動かして引っ張った。
 糸はぶーんとうねって、糸にしがみついたままの罪人や鬼たちは、血の池地獄の方へ飛んでいった。
 どぼん、どぼどぼん。ちゃぽん。どぼん。
 次々と着水していく。
 ベルゼビュートはその光景を無表情に見た。
 最後に、ガタイのでかい、高貴な光を放つ男が血の池に着水した。
 それを見て、ベルゼビュートは、その突き出た口にゆがんだ笑みを浮かべた。
 松風。
 呼ばれて、ベヒモスがそばによる。
 ベルゼビュートは、ベヒモスの上に乗っかると、
 閻魔に報せておけ。珍客だとな。
 そう鬼警部に言って、その場を後にした。



 とにかく、こういうことは二度とやらないでいただきたい。
 閻魔は、帳面をめくり、
 次の死人、と言って、それから正面右に控えている男に向かって、そう苦情を述べた。
 はい、まことに面目もなく、ただ今回の場合……、
 閻魔はその言葉におっかぶせるように、
 あなたの考えはわかりますがね、規則はきちんと守ってもらわなければならんのですよ。複雑な社会を維持するために、ルールはあるわけでしょう。
 はい、全くその通りで……、
 天国にもルールがあるように、地獄には地獄の沙汰というものがある。それを飛び越えての行為が許されては、そもそもの存在価値が疑われることにもなる。両界の行政と司法に対する不信は、あってはならんことなのですよ。
 はい。
 わかりますな、お釈迦様。
 はい。
 お釈迦様は神妙にうなずいた。頭の螺髪が濡れてほどけて、ロン毛になっていた。ちょっとウェーブがかかって、ワンレングスとソバージュの中間みたいになっている。
 閻魔は、目の前に座った死人の調書にざっと目を通すと、地獄行きの判決を言い渡し、書類に判を押して傍らの鬼に渡す。
 罪人となった死人が引っ立てられていった。
 閻魔はコンピュータのキーボードのENTERキーを押し、筆記道具と入力端末を兼ねたペンのおしりでおでこの横をコリコリと掻いた。
 ひじをついてあごを乗せ、神妙に控えているお釈迦様の方を横目で見る。
ため息をひとつついた。
身体を起こし、
 私はあの世の司法を預かる身だ。
 閻魔は言った。
 判決に不服があるときは、控訴院に書類を提出し、再審査請求をしてください。いいですね。
 はい。
 カンダダという男、ジェームスという名の蜘蛛、その両人に対しては、再度判決を出します。あなたの意見にも目を通しておきます。ただし、これは今回の事件のこともありますので、あなたの思うような結論になるかどうかはわかりませんよ。それでいいですな。
 はい。
 閻魔は再度ため息を付いた。
 だれかある。
 はい。
 美人の鬼が現れた。ビキニではなく、虎縞模様のスーツだ。
 お釈迦様を天国にお送りする。ヤコブのハシゴを降ろすよう天界へ連絡したまえ。
 はい。
 それから、お釈迦様をラダー・ステーションまでお見送りして。
 はい、わかりました。では、お釈迦様。
 美女鬼は携帯を取り出しながら、お釈迦様に礼儀の範囲の笑顔を見せた。
 お釈迦様はうなずき、
 閻魔殿、今回はまことに失礼した。いずれ埋め合わせさせていただく。地獄の王たちにもよしなに。
 うむ。お釈迦様もご壮健にな。わしは仕事が忙しいのでここで見送らせていただく。
 はい、では。
 お釈迦様が美人の鬼に案内されて部屋を出ると、閻魔は、何事もなかったように、
 次の死人、
 と言った。


 カンダダは、結局、天国にはいけなかった。閻魔の判決は公平だった。蜘蛛を助けたのは賞されるべきだが、それですべての罪を償うわけには行かないのだ。それに脱獄を図ろうとした動機については十分問題があるということになる。ただ、事件が事件だけに、彼をより重く罰するべきかどうか疑問もあった。
 それで当面、猶予処分として、血の池地獄ということになった。
 だが、血の池地獄が効かないことは、彼を買収しようとした赤鬼(彼は降格処分となった)の証言で明らかだったので、いつ、新設の糞尿池へとばされるか、カンダダは戦々恐々として落ち着かない日々をおくっていた。
 ただ、糞尿池赴任を嫌がる鬼たちの動きもあって、具体的な日時は決まっていない。決まった場合、カンダダと彼を買収しようとした赤鬼の二人だけが糞尿池と言うことになるだろうというのが、専門家の意見である。


 そして、


 東山室郡神下村大字谷の上の森に生えているクヌギの木の枝には、不細工なやや小振りの蜘蛛の巣があった。
 子蜘蛛のジェームス君は、今回の事件でプラマイゼロと判定された。彼の食べたハエはなぜか熊に転生した。理由は不明だ。
 そういうわけで、ジェームス君は、元態転生処分となり、前と同じ種類の蜘蛛として復活した。今度は、黄金蜘蛛の女親分となったマリコに食われることもなく、のんびりと暮らしている。


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