宮崎県庁
昭和7年建築。設計は置塩章。
現存する九州でもっとも古い県庁で、全国でも4番目というもの。
宮崎市は、江戸時代に各藩の飛び地があったことと、豊臣時代に伊東氏が市南部にあった曽井城から飫肥城(日南市)へ拠点を移したので、
宮崎平野は発展せず、大淀川南岸河口の赤江港とその後背地に当たる城ヶ崎、遊郭があった中村に商業地が拡がっていた。
明治6年、宮崎県が置かれると、大淀川北岸の、当時上別府村と呼ばれていた地に県庁を置くことにした。これが今の県庁のある地。
県庁が置かれた後、鹿児島県に併合され、西南戦争後に再分置された。
ちなみに西郷軍が宮崎にいたとき、西郷本人は現在の市の中心部に拠点を置きほとんど隠棲状態にあったそうで、
一方軍を指揮していた桐野利秋は南岸の中村に入り浸って、独自紙幣「西郷札」を発行しては遊んでいたという。
その頃はまだ、南岸の方が賑やかだったわけである。
宮崎県再分置後、県庁を中心に市街地が計画整備されたため、碁盤の目状に道が引かれている。
建物の横の部分。
建物の後ろの部分。
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